近況

近況
2000/2005英国サセックス大学法学部修士卒 冨田麻里(7thclouds) 愛犬びすけと東京新宿区早稲田町に暮らす 51歳 職業 英訳 現在週3日公務員非常勤職員

2013年2月12日火曜日

パンケーキディPancakeday 12 Feb, 2013 日本で思うこと

特定の宗教にとっての「善」などない、暴力や略奪が「善」や「法」の宗教も(社会)科学もない。ーToday is pancakeday12 February,2013 パンケーキデーに日本で思うこと。
2013年平成25年2月12日パンケーキデー。 イギリスに留学していた頃は全然気がつかなかったパンケーキデー。 留学記を書き始め、 そして、ブリティッシュカウンシルの「Education UKブログで読む英国留学http://www.educationuk-blog.jp」に参加しそこでテーマに上がっていたから知ったパンケーキディ。 その由来については例えばWikipediaにあがっていた参照文献 在米英国大使館のベージ(2007年アーカイブ)や、 英国ブリタニアのpancakedayのページー http://spotlight.britannica.co.uk/PancakeDay/PancakeDay_Article.html などに詳しい。 また、パンケーキレシピについては、大好きなBBC英国国営放送による2013パンケーキレシピや、 大好きなジェィミーオリバーのパンケーキレシピ(動画)も(^-^)http://www.jamieoliver.com/videos/it-s-nearly-pancake-day (文末にもジェィミーオリバーのパンケーキデーレシピのページリンクしてあります)♪いつも食べてるパンケーキだけれど昨日の朝は年に一度のパンケーキデーを意識して作りました。 少し厚めのホットケーキ風パンケーキを昨日の朝と晩は有機の蜂蜜で食べました。 普段も時々有機の蜂蜜やジャムとバターで食べているので、ジェィミーオリバーのこの動画の蜂蜜とホイップバター(クリーム) の簡単パンケーキ(ベーキングパウダーなし)は「そうそう」って感じでした。♪♪♪♪ さて、各国地域のパンケーキと40日間華美な式典食事を控えるlent四旬節fastingへの備えに四旬節初日灰の水曜日の前日告解の火曜日(肥沃の火曜日)に小麦粉卵砂糖を食べ尽くすパンケーキデーその宗教的由来については英語版Wikipedia以外にも。 その他いろいろなソースで調べてみた。 パンケーキがもともと好きな私にとってこの季節の食にまつわる文化習わしとして パンケーキデーはキリスト教の儀式であるだけでなく農作物酪農水産畜産の年度起点春を起点に 昨年分の穀物砂糖卵を使い切る(昨年分の豆を使い切る日本各戸で「邪悪を払うため」昨年分の豆を撒くのに似て)国際的に季節や農作などと深く関連する 普遍的な合理的儀式の一種に思えてきて、 最近では季節の変わり目の春を迎える行事としてとても身近に感じるものとなった。 参照文献としては、上記Wikipediaにあがっていたものの他 (ーBBC英国国営放送によるパンケーキデーレースの由来のページ http://www.bbc.co.uk/religion/religions/christianity/holydays/lent_1.shtml ) 参照ー国際教員協会のパンケーキデーをどう教えるかのページー http://www.tes.co.uk/article.aspx?storyCode=6175946 ) (参照 国際パンケーキデー協会のページ http://www.pancakeday.net/ による説明)などもある。 冬と春の間の農作物の備蓄を食べ切り新たな穀物農作の始まり日本の立春前の節分との交差点ー それが私がパンケーキデーを普遍的な季と農作物の年度変わり目の為の行事と感じる大きな理由だ。 しばらく断食或いは華美な食生活を控えておこうというキリスト教の儀式四旬節lentは春を迎える行事。 キリスト教の復活祭の40日前に華美な生活と食を控えるーfastingを行う。 その前に、卵と小麦粉バターとメープルシロップを使い、 タップリと栄養を貯めておこうという四旬節前の儀式パンケーキデー。 世界中冬と春農作物の終わりと始まりの時期にはそれぞれ合理的な区切りがあったのだと思うと面白い。 日本古来の季節の習わしもキリスト教や西洋のしきたりも同じ人間同士、食農作物の区切りと大きく関わっている。 世界中ヒトの暮らしは変わらない。同じ生き物だ。 もちろん、それぞれの宗教の違いでそれぞれに説明の違いはある。 が、「宗教」は要するに、古来からその時々の権力者が一種権力と平定を効率的に行うための政治技術的側面を多くもっていたと思う。 例えば、神道は、古来の権力者が、稲作の安定、自然災害からの防御などのために雨や風日照りをコントロールできると思われていた或いは思わせていた一種の権力維持の為の政治技術の権力維持のシステムであったと思われる。 その結果より雨を降らせることのできる日照りを抑えることのできる(と思われた)豪族が尊ばれて行った。 それは、西洋のキリスト教やイスラム教において、 万能のイエスキリストを時の権力ローマ皇帝権勢がローマ皇帝の政治技術によりローマ皇帝権勢のうちなるものとして構成し直したことにより、 イエスキリストというたまたま万能の人間が神として「復活」し人間世界に広く君臨し、ローマのみならず人知を超越したものとして世界に権勢を持つことになった。それは主にローマ皇帝権勢の政治権力の広がりとその域を同じくした。 が、同時に、そのイエスキリストの「出現を予言」したアラーを尊ぶことでイスラム民族はイスラム民族の「超越した能力」というものを世界に広めることになった。が、問題の発端は、イエスキリストが欧米中東の真ん中地中海地方に実在したことを取り合うしかないことを、それぞれの権力者が、それぞれに理論構成したにすぎないことを、各地域が「異なった文化」として捉えすぎなことだ。 実際は、イエスキリストの実在したことを、いろいろな地域からの視点で各政治権勢権力の視点で構成し直したものが、 キリスト教プロテスタントオーソドックスカソリック正教イスラム教イスラエルのjudaismであるにすぎない。 他方、アジアではどうかといえば、アジア例えば日本と韓国では農作物の安定や自然災害からの防御などのために同じような鳥居があり、 タイなど多くのアジア諸国でも、農作物の安定や自然災害からの防御などのため、敷地や家屋の各地点ー農作物を干す為に風通しをよくする などそれぞれ農作物の収穫や保存に合理的な各地点をきれいにし花を飾る習性がある。 アジアでは本来人知を超越したものとしてヒトではなくむしろ自然そのものが尊ばれてきた。 その上で、自然そのものと対話し自然そのものをコントロールできるとみられたヒトを神とたたえる傾向が強かった。 その流れが日本の神道である。 が、実際は、現代の科学においても自然そのものをコントロールすることは不可能であり、 自然そのものをコントロールできるとみられると考えれた人々はすべからず時の権力時の豪族のうちで自然そのものについての流れパターンを合理的に科学的に予測し人々に当時の科学的な範囲で予測し民を救うことのできたたまたまヒトがいた或いは多く雇っていた族が神と呼ばれていった。 その意味で神道も実際に現代の人々を救う科学と直結していない。 キリストが治したらい病は今は医学が科学が治す。 キリストが調停した紛争は今は司法制度が調停する。 キリストが時の権力から独立していた類稀なる論理性に優れた人物であったことが多くキリストの偉大なる功績の元であり、 今の時代にもキリストと同じような人物が必要とされることはあるにしても、だ。 神道が尊んだ自然災害からの防御は今は気象学がとってかわる。 現代の神とは、実際は、科学ということになる。 が、科学的に予測しきれない行為について、ヒトはまた「神」への祈りに期待する。 が、科学的に予測しきれない行為について、実際「神」は(も権力も暴力も)、無力だ。 にもかからず、ヒトは、洋の東西を問わず、神に期待する生き物だ。 が、神は、当時は、すすんでいたが、今は、科学が現実的にヒトを救う。 そこで、「神の神聖」を維持しようと、科学やヒトの論理性合理性を故意に邪魔する集団が世界の一部に現れたように思う。 すると、その邪魔を解決できないが故にヒトはまたヒトを救う事のない宗教へ回帰するトオモッテイルノダロウ が、宗教への回帰は、宗教対立、民族対立、テロと殺し合いで、武器兵器産業の株価を押し上げるだけだ。 神の「神聖」をありがたがらせる事が目的なのか、武器兵器産業の株価を押し上げる為に、改めて、 科学的に乗り越える事が難しいようにされた科学的な嫌がらせを故意に作り出し嫌がらせする事で、 宗教や民族対立への回帰へ追い込むのかー?! 現代の神へ祈る行為の内容の実際は、善くある事善くある事が報われなくとも善くある事を続ける事への心の支えであり、 本来、キリスト教とは今は科学が多く乗り越えた自然災害からの防御自然の予測医術や紛争の調停回避を超人的に行ったヒトイエスキリストを讃えることにあるのではない(時の権力にとってはそのようなものであったにせよ)。ローマ皇帝権勢やイスラム教イスラエルのjudismが存在し存在し続けてきた本来の意義はの実際はそもそもどのような不条理にあっても善くある事を続けることのヒトとしての善を生き抜く意義意味を支え讃えまた多くの民の辛さの中にある善を生き抜く意思を支えもって辛さの中にある民の信者の良さ善を生き抜く意思で民族紛争や対立自然災害から起こる混乱対立危難や殺し合いを回避させることであったはずだ。どのような不条理や困難にあっても善を生き抜くことは辛さを耐える為の精神予防医学自然の身体抵抗力を増加する予防身体医学的側面そして紛争回避技術の発展遂行という民自身にとっての自己統治自己自治の平和的人権保障と共生推進の政治的効果を持つものだからだ。そのような意味でキリスト教イスラム教イスラエルのjudaismなどの意義は科学や社会科学が自然災害や紛争を乗り越えた時も、ヒトが苦難を乗り切るための生き方心の持ち方そしてその根幹の善く生きること苦しくとも善く生きることをやめないことを尊ぶ視点や姿勢とその意義伝えて行くのが使命ではないかと思う。 その意味でこのたび辞意を表明されたベネディクト 他方、日本の神道はどうかと言えば、ヒトを超えた自然の偉大さを讃え、自然から比べたヒトの小ささを自覚しながら 自然との共生の道を探る事を、全ての命の尊さとともに、代々自然の偉大さと共生の道を語り継いで行く事にあるはずだ。 自然の偉大さを讃え自然との共生の道を探り語り継いで行く事ーそこには、多く科学的技術への尊敬も含まれているはずだ。 したがって、神道がそもそも他国や地域部族間の武力対立を「護る」「軍神」であるはずはその根幹的意義からも意味からも あり得ようもなく、明治天皇時代からの「軍神」転用は大きな日本の誤りであった事は違いない。 それだけでなく、科学的技術を敵とみなす視点もまた神道に反するものだ。 また、特定の部族豪族を崇拝するという事も神道の意味とは本来関係ない。 むしろ逆に、自然災害からの防御自然の偉大さを讃え自然との共生の道を探る事を続ける豪族として(時の権力と共に)選ばれた氏族が 代々自然との共生の道を探る事を続け自然との共生の道を語り継いで行くーという事にすぎない。 その意味で、神道の強制は、そもそもにして、神道の意味とかけ離れている。 自然との共生の道を探る事を続ける豪族を「敬う」ことを強制するという事こそが神道の意味に反するといってもよい。 神道はひっそりと自然との共生の道を語り継ぎ共生の道を探る事を続けることを自らの使命とする一族として記憶された ひとびととその貢献が国を国としてまとめその一族が自然との国際社会との共生の道を探る事を国の象徴として尊ぶということが民主主義の元認められている、ということはある。憲法前文と97条含め、憲法全条は天皇制や日本の神道の意義も背理ではなくむしろ神道や天皇制の本来の意味に整合性あると言えなくもない。憲法想起者は実に日本の古来からの自然信仰の一種神道信仰や天皇制をよくよく研究されているとも思われる。そして、憲法に神道や天皇制への義務や紀元節の強制のないことは宗教の自由国際社会との共生を尊ぶ基本的人権の保障はもとより、神道や天皇制が自然との共生国際社会多民族との共生日本の国家としての存在を維持しつつ各国地域との平和的協調共生の技術や合理的科学を尊びもって武力紛争の回避による農作物酪農水産畜産の安定や自然災害からの防御を目指す本来の意義とも整合性あるものとしてあることとつながる。今はその共生の技術は豪族ではなくあらゆる民それぞれが力と知恵を発揮すべきものであるという合理的現実的発想こそが凡ゆる民の平和と安定人権保障につながることがわかったため、凡ゆる民の知識知見知恵をいかすため、憲法の示す自己自治自己実現と二院制三権分立司法行政立法の独立民主主義のもと豪族の知恵でなく全ての人の人権保障を元に各自の優れた知見知識を各公約を元に各自の政策を競わせることで選挙で日本の世界の平和と安定紛争回避を合理的に進めて行くことになった。 そして、日本でいうならば2013年2月現在で憲法に書かれている政治技術ーヒト歴史の中で到達した合理的現実的政治技術や発想ーはヒトにとり未来永劫守られていくべき存在であると言っても良く、現代の神と言っても良いだろう。それは民族自然との共生の技術を尊ぶ日本古来の神の存在ともつながりしかもヒトが苦難を乗り切るための政治的技術でもありヒトに普遍的なものであることを忘れてはならないと思う。 そのことはキリスト教イスラエルのjudaismイスラム教神道どれもに通じる、平和と安定紛争回避技術とその基礎となる善く生きることを支え苦難にも善く生きることを尊ぶ視点や姿勢を持つことを支えることそのことが世界の平和と安定紛争回避を支えることにつながることとも通じる。 この意味でキリスト教カソリックの法王が辞意を表明した昨日「''violence in the name of religion is contrary to God's nature and to reason-by Pope Benedict XVI''(「(宗教は武力紛争を説くものではなく)宗教の為の暴力は神の本質とその意義に反するものだ」NYT201年2月11日付記事より)と改めて宗教の本来的平和的共生の意義を説かれたことの意義にも繋がる。ゲイライツへの反対を表明するなどタカ派と言われたドイツ人初の法王だったがキリスト教カソリック法王として初めて、キリスト教教会神父などによるの性的虐待を公式に認めた法王でもあった。 キリスト教カソリック法王ベネディクト16世が85歳という高齢を理由に辞意を表明した昨晩日本に伝わったのニュースについては以下のニューヨークタイムズ記事を参照 http://www.nytimes.com/2013/02/12/world/europe/pope-benedict-xvi-says-he-will-retire.html?_r=1& さて、話は戻るが、各季節ごとに訪れる、節分やパンケーキデーには、各地の自然の気温の切り替わりと直結している。が、国際社会の無用な混乱や紛争を避ける技術に、現代のカレンダーはできている。それがたとえキリスト教(イエスキリストの死前後)との関係でできたものであったにしても。その「妥協」はしかも日本の暦や紀元節だけにあるものではない。 きっとキリスト教信者にはキリスト「復活」の日つまり復活祭を起源としたいものもいるし、イスラム教信者にはアラーがイエスキリストの出現を予言した時やアラーの誕生日を起源としたいものもいるだろう。キリがない。 他方、季節の変わり目変わり目の習わしを節分やパンケーキデーとして残すのは、各地の自然の気温の切り替わりや風習を思い出し確認するのに面白いことだし大切なことのようにも思う。 パンケーキデーそのものについては、以下の資料などを参考に、意外に薄いパンケーキをたくさん作ったらしいパンケーキデーを現地時間に併せて今夜の夕食にしてみようと思う。 ジェィミーオリバーのパンケーキデーレシピhttp://www.jamieoliver.com/recipes/fruit-recipes/coconut-pancakes-with-pomegranate-jewelsもつけておこう。 各国地域のパンケーキと40日間華美な式典食事を控えるlent四旬節fastingへの備えに四旬節初日灰の水曜日の前日告解の火曜日(肥沃の火曜日)に小麦粉卵砂糖を食べ尽くすパンケーキデーその宗教的由来については英語版Wikipedia以外にもいろいろなソースで調べてみた。 パンケーキがもともと好きな私にとってこの季節の食にまつわる文化習わしとして パンケーキデーはキリスト教の儀式であるだけでなく農作物酪農水産畜産の年度起点春を起点に 昨年分の穀物砂糖卵を使い切る(昨年分の豆を使い切る撒き切るのに似て)国際的に季節や農作などと深く関連する 普遍的な合理的儀式の一種に思えてきて、 最近では季節の変わり目の春を迎える行事としてとても身近に感じるものとなった。 参照文献としては、上記Wikipediaにあがっていたものの他(ーBBC英国国営放送によるパンケーキデーレースの由来のページ http://www.bbc.co.uk/religion/religions/christianity/holydays/lent_1.shtml ) 参照ー国際教員協会のパンケーキデーをどう教えるかのページー http://www.tes.co.uk/article.aspx?storyCode=6175946 ) (参照ー国際パンケーキデー協会のページ http://www.pancakeday.net/ による説明)(参照ー BBC英国国営放送のパンケーキデーになんだパンケーキレシピのページ http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en%7Cja&u=http://www.bbc.co.uk/food/occasions/pancake_day&ei=_7YZUa7KK-nSmAXV9ICICA )などもある。 冬と春の間の農作物の備蓄を食べ切り新たな穀物農作の始まり日本の立春前の節分との交差点ー それが私がパンケーキデーを普遍的な季と農作物の年度変わり目の為の行事と感じる大きな理由だ。 しばらく断食或いは華美な食生活を控えておこうというキリスト教の儀式四旬節lentは春を迎える行事。 キリスト教の復活祭の40日前に華美な生活と食を控えるーfastingを行う。 その前に、卵と小麦粉バターとメープルシロップを使い、 タップリと栄養を貯めておこうという四旬節前の儀式パンケーキデー。 世界中冬と春農作物の終わりと始まりの時期にはそれぞれ合理的な区切りがあったのだと思うと面白い。 日本古来の季節の習わしもキリスト教や西洋のしきたりも同じ人間同士、食農作物の区切りと大きく関わっている。 世界中ヒトの暮らしは変わらない。同じ生き物だ。 もちろん、それぞれの宗教の違いでそれぞれに説明の違いはある。 が、「宗教」は要するに、古来からその時々の権力者が一種権力と平定を効率的に行うための政治技術的側面を多くもっていたと思う。 例えば、神道は、古来の権力者が、稲作の安定、自然災害からの防御などのために雨や風日照りをコントロールできると思われていた或いは思わせていた一種の権力維持の為の政治技術の権力維持のシステムであったと思われる。 その結果より雨を降らせることのできる日照りを抑えることのできる(と思われた)豪族が尊ばれて行った。 それは、西洋のキリスト教やイスラム教において、 万能のイエスキリストを時の権力ローマ皇帝権勢がローマ皇帝の政治技術によりローマ皇帝権勢のうちなるものとして構成し直したことにより、 イエスキリストというたまたま万能の人間が神として「復活」し人間世界に広く君臨し、ローマのみならず人知を超越したものとして世界に権勢を持つことになった。それは主にローマ皇帝権勢の政治権力の広がりとその域を同じくした。 が、同時に、そのイエスキリストの「出現を予言」したアラーを尊ぶことでイスラム民族はイスラム民族の「超越した能力」というものを世界に広めることになった。が、問題の発端は、イエスキリストが欧米中東の真ん中地中海地方に実在したことを取り合うしかないことを、それぞれの権力者が、それぞれに理論構成したにすぎないことを、各地域が「異なった文化」として捉えすぎなことだ。 実際は、イエスキリストの実在したことを、いろいろな地域からの視点で各政治権勢権力の視点で構成し直したものが、 キリスト教プロテスタントオーソドックスカソリック正教イスラム教イスラエルのjudaismであるにすぎない。 他方、アジアではどうかといえば、アジア例えば日本と韓国では農作物の安定や自然災害からの防御などのために同じような鳥居があり、 タイなど多くのアジア諸国でも、農作物の安定や自然災害からの防御などのため、敷地や家屋の各地点ー農作物を干す為に風通しをよくする などそれぞれ農作物の収穫や保存に合理的な各地点をきれいにし花を飾る習性がある。 アジアでは本来人知を超越したものとしてヒトではなくむしろ自然そのものが尊ばれてきた。 その上で、自然そのものと対話し自然そのものをコントロールできるとみられたヒトを神とたたえる傾向が強かった。 その流れが日本の神道である。 が、実際は、現代の科学においても自然そのものをコントロールすることは不可能であり、 自然そのものをコントロールできるとみられると考えれた人々はすべからず時の権力時の豪族のうちで自然そのものについての流れパターンを合理的に科学的に予測し人々に当時の科学的な範囲で予測し民を救うことのできたたまたまヒトがいた或いは多く雇っていた族が神と呼ばれていった。 その意味で神道も実際に現代の人々を救う科学と直結していない。 キリストが治したらい病は今は医学が科学が治す。 キリストが調停した紛争は今は司法制度が調停する。 キリストが時の権力から独立していた類稀なる論理性に優れた人物であったことが多くキリストの偉大なる功績の元であり、 今の時代にもキリストと同じような人物が必要とされることはあるにしても、だ。 神道が尊んだ自然災害からの防御は今は気象学がとってかわる。 現代の神とは、実際は、科学ということになる。 が、科学的に予測しきれない行為について、ヒトはまた「神」への祈りに期待する。 が、科学的に予測しきれない行為について、実際「神」は(も権力も暴力も)、無力だ。 にもかからず、ヒトは、洋の東西を問わず、神に期待する生き物だ。 が、神は、当時は、すすんでいたが、今は、科学が現実的にヒトを救う。 そこで、「神の神聖」を維持しようと、科学やヒトの論理性合理性を故意に邪魔する集団が世界の一部に現れたように思う。 すると、その邪魔を解決できないが故にヒトはまたヒトを救う事のない宗教へ回帰するトオモッテイルノダロウ が、宗教への回帰は、宗教対立、民族対立、テロと殺し合いで、武器兵器産業の株価を押し上げるだけだ。 神の「神聖」をありがたがらせる事が目的なのか、武器兵器産業の株価を押し上げる為に、改めて、 科学的に乗り越える事が難しいようにされた科学的な嫌がらせを故意に作り出し嫌がらせする事で、 宗教や民族対立への回帰へ追い込むのかー?! 現代の神へ祈る行為の内容の実際は、善くある事善くある事が報われなくとも善くある事を続ける事への心の支えであり、 本来、キリスト教とは今は科学が多く乗り越えた自然災害からの防御自然の予測医術や紛争の調停回避を超人的に行ったヒトイエスキリストを讃えることにあるのではない(時の権力にとってはそのようなものであったにせよ)。ローマ皇帝権勢やイスラム教イスラエルのjudismが存在し存在し続けてきた本来の意義はの実際はそもそもどのような不条理にあっても善くある事を続けることのヒトとしての善を生き抜く意義意味を支え讃えまた多くの民の辛さの中にある善を生き抜く意思を支えもって辛さの中にある民の信者の良さ善を生き抜く意思で民族紛争や対立自然災害から起こる混乱対立危難や殺し合いを回避させることであったはずだ。どのような不条理や困難にあっても善を生き抜くことは辛さを耐える為の精神予防医学自然の身体抵抗力を増加する予防身体医学的側面そして紛争回避技術の発展遂行という民自身にとっての自己統治自己自治の平和的人権保障と共生推進の政治的効果を持つものだからだ。そのような意味でキリスト教イスラム教イスラエルのjudaismなどの意義は科学や社会科学が自然災害や紛争を乗り越えた時も、ヒトが苦難を乗り切るための生き方心の持ち方そしてその根幹の善く生きること苦しくとも善く生きることをやめないことを尊ぶ視点や姿勢とその意義伝えて行くのが使命ではないかと思う。 その意味でこのたび辞意を表明されたベネディクト 他方、日本の神道はどうかと言えば、ヒトを超えた自然の偉大さを讃え、自然から比べたヒトの小ささを自覚しながら 自然との共生の道を探る事を、全ての命の尊さとともに、代々自然の偉大さと共生の道を語り継いで行く事にあるはずだ。 自然の偉大さを讃え自然との共生の道を探り語り継いで行く事ーそこには、多く科学的技術への尊敬も含まれているはずだ。 したがって、神道がそもそも他国や地域部族間の武力対立を「護る」「軍神」であるはずはその根幹的意義からも意味からも あり得ようもなく、明治天皇時代からの「軍神」転用は大きな日本の誤りであった事は違いない。 それだけでなく、科学的技術を敵とみなす視点もまた神道に反するものだ。 また、特定の部族豪族を崇拝するという事も神道の意味とは本来関係ない。 むしろ逆に、自然災害からの防御自然の偉大さを讃え自然との共生の道を探る事を続ける豪族として(時の権力と共に)選ばれた氏族が 代々自然との共生の道を探る事を続け自然との共生の道を語り継いで行くーという事にすぎない。 その意味で、神道の強制は、そもそもにして、神道の意味とかけ離れている。 自然との共生の道を探る事を続ける豪族を「敬う」ことを強制するという事こそが神道の意味に反するといってもよい。 神道はひっそりと自然との共生の道を語り継ぎ共生の道を探る事を続けることを自らの使命とする一族として記憶された ひとびととその貢献が国を国としてまとめその一族が自然との国際社会との共生の道を探る事を国の象徴として尊ぶということが民主主義の元認められている、ということはある。憲法前文と97条含め、憲法全条は天皇制や日本の神道の意義も背理ではなくむしろ神道や天皇制の本来の意味に整合性あると言えなくもない。憲法想起者は実に日本の古来からの自然信仰の一種神道信仰や天皇制をよくよく研究されているとも思われる。そして、憲法に神道や天皇制への義務や紀元節の強制のないことは宗教の自由国際社会との共生を尊ぶ基本的人権の保障はもとより、神道や天皇制が自然との共生国際社会多民族との共生日本の国家としての存在を維持しつつ各国地域との平和的協調共生の技術や合理的科学を尊びもって武力紛争の回避による農作物酪農水産畜産の安定や自然災害からの防御を目指す本来の意義とも整合性あるものとしてあることとつながる。今はその共生の技術は豪族ではなくあらゆる民それぞれが力と知恵を発揮すべきものであるという合理的現実的発想こそが凡ゆる民の平和と安定人権保障につながることがわかったため、凡ゆる民の知識知見知恵をいかすため、憲法の示す自己自治自己実現と二院制三権分立司法行政立法の独立民主主義のもと豪族の知恵でなく全ての人の人権保障を元に各自の優れた知見知識を各公約を元に各自の政策を競わせることで選挙で日本の世界の平和と安定紛争回避を合理的に進めて行くことになった。 そして、日本でいうならば2013年2月現在で憲法に書かれている政治技術ーヒト歴史の中で到達した合理的現実的政治技術や発想ーはヒトにとり未来永劫守られていくべき存在であると言っても良く、現代の神と言っても良いだろう。それは民族自然との共生の技術を尊ぶ日本古来の神の存在ともつながりしかもヒトが苦難を乗り切るための政治的技術でもありヒトに普遍的なものであることを忘れてはならないと思う。 そのことはキリスト教イスラエルのjudaismイスラム教神道どれもに通じる、平和と安定紛争回避技術とその基礎となる善く生きることを支え苦難にも善く生きることを尊ぶ視点や姿勢を持つことを支えることそのことが世界の平和と安定紛争回避を支えることにつながることとも通じる。 この意味でキリスト教カソリックの法王が辞意を表明した昨日「''violence in the name of religion is contrary to God's nature and to reason-by Pope Benedict XVI''(「(宗教は武力紛争を説くものではなく)宗教の為の暴力は神の本質とその意義に反するものだ」NYT201年2月11日付記事より)と改めて宗教の本来的平和的共生の意義を説かれたことの意義にも繋がる。ゲイライツへの反対を表明するなどタカ派と言われたドイツ人初の法王だったがキリスト教カソリック法王として初めて、キリスト教教会神父などによるの性的虐待を公式に認めた法王でもあった。 キリスト教カソリック法王ベネディクト16世が85歳という高齢を理由に辞意を表明した昨晩日本に伝わったのニュースについては以下のニューヨークタイムズ記事を参照 http://www.nytimes.com/2013/02/12/world/europe/pope-benedict-xvi-says-he-will-retire.html?_r=1& さて、話は戻るが、各季節ごとに訪れる、節分やパンケーキデーには、各地の自然の気温の切り替わりと直結している。が、国際社会の無用な混乱や紛争を避ける技術に、現代のカレンダーはできている。それがたとえキリスト教(イエスキリストの死前後)との関係でできたものであったにしても。その「妥協」はしかも日本の暦や紀元節だけにあるものではない。 きっとキリスト教信者にはキリスト「復活」の日つまり復活祭を起源としたいものもいるし、イスラム教信者にはアラーがイエスキリストの出現を予言した時やアラーの誕生日を起源としたいものもいるだろう。キリがない。 科学の時代の神の意義、善く生きるとはヒトがヒトとして武力軍事紛争暴力を調停や外交で回避し もって平和と安定と自然や他民族他宗教との共生国際社会平和と安定を尊ぶ視点や姿勢 普遍に普遍なヒトとして非暴力反差別で不条理や困難にも暴力へ向かわずヒトとして善く生きること善く生きる意思を支え照らすことにある。 特定の宗教にとってのみ「通用」する「善」などない。暴力が「善」である宗教もない。 他方、季節の変わり目変わり目の習わしを節分やパンケーキデーとして残すのは、各地の自然の気温の切り替わりや風習を思い出し確認するのに面白いことだし大切なことのようにも思う。 パンケーキデーそのものについては、以下の資料などを参考に、意外に薄いパンケーキをたくさん作ったらしいパンケーキデーを現地時間に併せて今夜の夕食にしてみようと思う。 ジェィミーオリバーのパンケーキデーレシピhttp://www.jamieoliver.com/recipes/fruit-recipes/coconut-pancakes-with-pomegranate-jewelsもつけておこう。